本日、11月15日は「着物の日」ということで、幸田文さん著の『きもの帖』を読んだ感想をまとめておこう。
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この本の感想を一言で言えば、「お婆ちゃんの話を聞いている」よう。もちろん、本の中にある写真の幸田文さんはお若く美しいが、時代を経て体得された着物に関する色々なお話を優しく話して下さるようでもあった。
私の祖母は既に亡くなっているが、彼女達が生きているうちに着物についての話を聞いたことはない。でも、父方も母方の祖母もいつも着物姿だった。確か幸田さんと同じ明治生まれ。派手な着物ではなく、本当に慎ましやかな日常着だった。色も地味な紺や茶色だったと思う。上っ張りを着ていた。どんな帯をしていたか思い出せない。手元に残されているの祖母が仕立てたであろう着物が一枚残っているだけ。
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母方の祖母は早くに亡くなった。今の私の年齢と同じぐらい。ちょうどお盆で帰省していた時に心臓発作にみまわれた。幼い記憶を辿ると最後に見た祖母の姿は割烹着をきた着物姿で洗濯機の前に立っていた。
父方の祖母は長生きだった。私が中学校ぐらいの時は数ヶ月の間だったが、暫く一緒に住んでいた。その時の写真が手元にあって、茶色の上っ張りをきている。夫(私の祖父)を若い頃に亡くし、相当苦労して子供達を育てたと思う。
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着物というのは、それを通して先人の女性達との会話が出来るような気がしてならない。着物と一緒に厳しい時代を生き抜いてきた女性の姿。幸田さんの文章を読むことで、昔の女性達の声を聞いているようで嬉しかった。
まず最初に着物について語られていたことは、着物は「かきあわせる」ということ。洋服と違って一枚の平面な布を立体的なボディに合わせるのだから、上からかぶるわけでもなく「上前と下前をかきあわせて着る時の腰の感覚」「左右の襟をかきあわせる胸もとの感覚」というのが着物独自のもの。
そして、それは「自分を大事にして、愛おしむ形」「着物が私を大事にしてくれてるな」といった感じだとおっしゃっている。着物は単なる布を合わせた衣服だけではなく、それらを愛おしんで袖を通してきた人たちも一緒に守ってくれるような感じがする。
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それから、浴衣の着方にみる「浴衣の一生」にはものを大切にする心が現れる。おろしたてを着て、暫くするとそれは寝間着になり、最後は雑巾かオムツになるという。とことんまで着尽くすことが出来るのも着物。
さらには、着物の着方、合わせ方(今でいうコーディネート)で女友達の心の具合を察するという。昔の高貴な女性達も重ね着する時の色の合わせ方でその人のインテリジェンスは美意識がわかると聞いたことがある。やはり、着物は奥が深い。
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私自身が着物を着ていていいなぁっと思うのは、やはり季節感を感じることが出来ること。いや、もうちょっと突っ込むと「季節の移り変わりを反映」させることが出来ること。天候や気温の移り変わりに敏感になるし、その季節の自然の色合いにも自然と目がいくようになる。
そして、今回ハッとさせられたのは季節の移り目の難しさである。特に今年の夏は長かった。秋が来るのかと思ったら、また元気な夏がやってきて、9月半ばの夏物から秋単衣という時期に猛暑がぶり返し「まさかの浴衣」を着ていたのである。それでもまた数週間経つと秋らしい気配がどんどんと深まっていった。
幸田さんでさえ、「もやもやと二つの季節が逝くともつかず、来るともなく混ざりあっている時季」があり、「季節の継ぎ目は、なかなか面倒くさいこと」になるのである。そして、着物だけに止まらず、「昔からものの継ぎ目変わり目はよろず難しいもの」ということを痛感することになる。
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最後に着物の美しさはやはり「色がこぼれる」ことにあると思う。洋服では自分でもなかなかチャレンジしないような色の組み合わせも着物なら出来るような気がするし、そして色を前面に出すだけではなく、袖口さ裾からちらっと溢れさせるのである。憎い演出!動きのある色も着物ならではの美しさである。
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他にも沢山のことを話しかけてくださったと思うが、全ては把握しきれない。「着物は一生かけて学ぶもの。着るもの。」そうおっしゃっていたことを心底におきながら、少しずつ着続けていけたらと思う。
着物熱という言葉があるが、私の場合は急にくる発熱ではなくじわじわとこみ上げてくる熱である。まだまだ微熱は続きそうである。